
| Yam の略歴(病込み) | |
| 幼少期 |
割と平穏期 1969年、中国地方のとある市で生まれる。両親+姉一人。内気だが我が儘な子であった。この頃から何故か夜などに視覚・聴覚の離人感があったが、目がおかしいのだろう、と気にせず育つ。それ以外は割と平穏な暮らしであった。 |
| 小学校時代 |
おかしな行動、開始! 小学二年生までは、まったく目立たない子であった。また目立たない存在であることは、まるで苦でなく自認しており安住していた。…が、小学三年を期に引っ越し。何故か、いきなり学級委員にまで推薦されるという、全くもって自分では「????」な事態に、まるでついて行けず…。 「良い生徒」であることを暗黙のうちに背負わせれているように勘違い(??)したせいか、小学四年生の夏休みに関西の祖母の家に旅行に行った際「帰りたくない!」と、父が迎えに来るまでの、そのまま夏休み一ヶ月を祖母の家で過ごすという、いろいろ「おかしな行動」を開始するようになる。その二学期は、三ヶ月ほど今で言う「不登校生徒」になった。精神科初受診も体験。 小学五年生以来は、三重生活(?)! 先生の前では「良い子」、友達の前では「我が儘な子」、両親の前では「何を考えているのか解らない無口な子」であった(やはり、この辺から、かなりやばいぞ…!) |
| 中学時代 |
やっぱりちょっぴり…時代 一年の頃はとにかく部活(ブラスバンド部)とドラムを習うことがおもしろく、また小学生の頃のような「良い子・優等生」でなくとも良い環境だったので、割と平穏に終わる。 二年。友達と祖母のいる関西へ遊びに行った際、日焼けがひどく脱水症状を起こしたのか貧血になる。その時の、目の前が真っ白になることと、ひどい吐き気により、短期的に「嘔吐恐怖症」のようになる。 三年。嘔吐恐怖症は去り、部活にバンドなんぞ組んで楽しんでおった。 |
| 高校時代 |
ついに爆発! PD発症 高校は私としては、今でも交流のある友達の出来たなかなか良い場であった…が、16歳、高校一年の冬。またもや祖母の家にお年玉をもらいに行った次の日、祖母の持たせてくれたお土産のおかきを食べ過ぎ、腹をこわす。下痢と嘔吐の繰り返しでまたもやひどい脱水症状になる(どうやら、私の「なんか、おかしくなる」前触れの鍵には、祖母がいるようであるが…)。 腹は治ったはずだというに、何故か冬休み中、吐き気が止まらず。学校は列車通学だった。三学期の始業式の日、その通学列車の中で、どえらいパニック発作を初体験。その後、列車に乗ると必ずパニック発作を起こすようになるが、誰にも知られてはならん! と何故か思いこみ、誰にも言わず、ただ耐える生活。学校はおもしろかったが、行き帰りの列車が苦痛であった。 やはり一人では耐えられない、と地元の大学病院へ受診する。この頃はパニック発作などの知識も情報もなかったので、「お腹がまだ悪いのだ」と思い込んでいた。体中検査した結果、あっさり精神科へ回されたが、そこでも「思春期特有の自律神経失調症」のような「病気でないから」と、あっさり帰され、そのまま…。 高校はおもしろかったが、パニック発作のために、心底から楽しめない日々にイラだっていた日が続いていたように思う。 |
| 十代後半〜二十代前半 |
PDでいろいろ台無しにしたかも… 相変わらずPD症状はあり。大学は中退(これが病のせいかどうかは自分でもわからない)。バイトとバンド生活。大学は関西でバンドも関西でやっていたため、関西の電車にも、まったく「まいった…」。それでも意地の如く電車に乗っていたが、やっぱり病院なしでPDを克服・対処するには、相当の精神力が必要であると実感。 やっと「やっぱりこれは病院へ行く症状なんじゃないかな?」と自覚し、二十代前半に行った心療内科A診療所は良心的であった。当時はパニック障害という病名がまだ未開の地であったようで「過換気症候群」と診断される。丁寧な問診に行動療法、日記カウンセリング(だと思う、先生の返事付き)、薬物療法開始。しかし、毎日の日記が苦痛で受診をやめてしまうという、アホなことをしてしまった…(後悔)。 |
| 二代前半〜三十代直前 |
通院のおかげで生活にゆとり! 25歳まではどこにも就職せずバンド活動しながら、モラトリアムしよう、と決めていたため、本当に25までは様々なバイト体験(PDあると辛いぜ、これも…)を経験したが、これは結構、良い体験だったと思う。抑鬱感(鬱病とは違う)も伴っていたようだが、これも若かったから乗り越えられた! その25になり、「このまま訳のわからない症状で就職は難しいだろう」と本気で治療をしようと覚悟! いろんな医院を回ったが、やはり元のA診療所へ。「Yamさん、顔が変わりましたよ! 数年前の受診時は昼間の行灯みたいだったのに、今は目に輝きがあります」とA先生に言われてしまった…(私を覚えてくれていた先生に感謝!)! 半年の就職活動の末、何故かその就職活動していた期間が役に立ち(…この顛末はちょっと面倒なので省略)、会社にもぐり込む(?)ことが出来る。治療と仕事と、この期間はとても充実していた。 |
| 三代前半〜現在 |
思いもよらない事態! 順調であった仕事であるが、世の中は大不況。私は職の幅を広げる目的で、知人の会社で修業させてもらっていたが、プレゼン失敗の連続で「給料が払えないんだよ…」と解雇…。「まあ、仕方ないさ、もう一個の仕事でがんばるべ」と、内職のような仕事もしていたのでが、解雇三ヶ月後に経営者が変わり(つまり、事実上はちょっと倒産?)、スタッフ全員入れ替えで私も入れ替え…え? つまり、また解雇? まいったわ…全く、これには、まいった…! もっとまいったのが、同時期、祖母が入院。病院で半年、付き添い介護をした。祖母が亡くなり、少し脱力したが、「そうも言ってられるか! 働かんと生活できへんやん!」と、がむしゃらに仕事探し、どっかにもぐり込んでいたが…、祖母が亡くなり、その後、今度は小学生以来の親友が血液の病気(これもあまりの急だったために、家族さえ病名をあまりわかってなかったらしい)で急死の知らせ。 「私、なんか悪いことしたかー! …厄年、大当たり」なんて悠長なことは後から思ったことで、ばったり…(あまり当時のことは覚えていないのだった)。 PDで通院していた病院では、鬱病の診断をされる。が、生活のために働いていた。…とはいえ、これが、まったくもって、経営者側からしたら「こいつ、まるで、ボケ老人の如く…」状態で、カラ回りの連続であった。思考能力・記憶力・感情全般、停止状態であった…長かったな〜。 現在は、このような廃人(俳人だったらええのにな〜)の如くなってしまったため、実家へ強制輸送され、そのまま実家で寄生虫しているのである。 |